[2024-2]我が国で最後に製造されたヘルメット潜水器
種市高校の職員玄関には、我が国で最後に製造されたといわれるヘルメット潜水器が展示してあります。我が国の潜水史、洋野町にヘルメット潜水が定着した経緯、我が国で最後に製造されたヘルメット潜水器が本校に展示されている経緯を紹介します。
我が国におけるヘルメット潜水の黎明
1866(慶応2)年、山梨県の増田萬吉氏が指揮する潜水作業者が、横浜港に停泊中のイギリス国の弾薬倉庫船「パラシュート号」の船底を修理しました。これが、我が国で潜水器を使用したとされる最も古い記録です。1871(明治4)年、萬吉氏は近代的な消防技術を習得するためオランダ国に留学して潜水技術を学び、「イギシル・ベーゴマン社製ヘルメット潜水器」10基を携えて帰国。潜水技術の研究を極めた萬吉氏の指導により、翌年には大日本帝国海軍工作局で潜水器の製造が開始されました。1878(明治11年)には、豊富な知識と優秀な技術を基に千葉県安房郡根本村(現在の南房総市白浜町根本)の漁業者にヘルメット潜水を指導するなど、萬吉氏は先駆者として我が国における潜水技術の普及に尽力しました。
「南部もぐり」が洋野町に定着した経緯
1898(明治31年)6月に、平内沖(本校の目前の沖合)で貨客船「名護屋丸」が座礁。この解体引き揚げのために千葉県から件の潜水夫が訪れ、当地の磯崎定吉氏・伝助氏をはじめ数名が作業に従事し、潜水技術を習得しました。その後、磯崎氏らは一族を中心に町内の若者達へ潜水技術を伝え、今日の「南部もぐり」の礎を築きました。
我が国で最後に製造されたヘルメット潜水機が種市高校に寄贈された経緯
種市高校はヘルメット潜水を今に伝える我が国で唯一の教育機関であり、萬吉氏の孫である増田平氏が本校を訪れた際、祖父の萬吉氏が生涯を懸けて普及に努めた潜水技術が明治以来当地に脈々と受け継がれていることに感銘を受け、これが契機となってこのヘルメット潜水器が本校に寄贈されました。
製造元の東亜潜水機株式会社によれば、ヘルメット潜水器を製造する技術を持つ職人が既にいないため、これが我が国で最後に製造されたヘルメットであろうといわれており、大変貴重なものとして本校の職員玄関に展示しています。
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